ためらわず
踏み出した一歩が、
グローバル開発の
扉を開いた

開発職

中石 剛志

2003年入社/理学部物理学科卒業。PLM製品の開発部署に配属となり、以来、PLM製品の開発に従事。入社10年目で図研ドイツに赴任し、現地の開発サポートにあたる。7年間の駐在を経て帰国し、日本とドイツの橋渡し役として開発業務をけん引する。

  • 登場する社員は仮名表記です。

PLM(製品ライフサイクル管理)製品の開発リーダーとして活躍する中石剛志。入社10年目に打診されたのは「全く想定していなかった」という海外赴任だった。異なる文化に触れたことで、中石に起きた変化をたどる。

入社10年目で打診された海外赴任は
「自分を変えるチャンス」

中石が図研ドイツに赴任したのは、入社10年目のことだった。与えられたミッションは、本社の製品開発メンバーとして、図研ドイツの開発をサポートすること。そして、ヨーロッパの顧客とコミュニケーションを図り、図研製品の拡販に貢献することだった。

だが、入社当時は海外で働くことを「全く意識していなかった」という。

英語が得意なわけでもないですし、そもそも海外に行ったこともなかったのです。当時は、開発メンバーの海外赴任はそう多くなく、想定にありませんでした

入社以来、中石はPLM製品の開発に携わっていた。

PLM(Product Lifecycle Management)とは、製品のライフサイクル(企画・開発・設計・生産準備・生産・販売・保守・廃棄)を一元管理し、設計・生産効率の向上やコスト削減などを目的とするシステムである。

担当製品の『DS-CR』は電気設計専用のPLM製品であり、日本で開発された製品だ。製品リリース後、海外で『DS-CR』の導入が進むにつれて英語による問い合わせも増えたが、翻訳ツールを使いながら回答していた。

しかし、入社9年目で経験した初めての海外出張で、大きな言葉の壁を感じることになる。

図研ドイツと技術情報を連携するため、技術サポートとして同行したのです。ドイツの開発マネージャーとの会話は、英語についていくだけで必死でした。上司に逐一確認しつつ、なんとか場をしのいだという感じでしたね

ドイツ駐在が決まったのは、その1年後だった。図研ドイツで開発サポートにあたっていた前任者が帰国し、中石がその後任に抜擢されたのだ。

中石が選ばれた理由のひとつに、開発担当としての実績があった。図研ドイツでは顧客の要望に沿った製品カスタマイズを行っており、日本の開発者の知識や経験を必要としていた。さらに、カスタマイズで発生した問題を整理し、日本とのやりとりをスムーズにしたいという狙いもあった。

海外出張で大変な思いをしたこともあり、最初は打診に驚いたのですが、新しいことに挑戦する良い機会ではと考えました。入社10年目で、だいたいの仕事は1人でこなせるようにはなった。であれば、ここで環境を変えてはどうかと思えたのです

この機会を自分のキャリアに生かしたい。だが、海外で暮らすことにためらいもある。最後に中石が相談したのは、4歳年上の兄だった。他業界で営業職をしていた兄は、長らく海外で仕事をした経験があった。

海外赴任のことを相談すると、『言葉は頑張ればなんとかなる』、『海外で働きたいのに叶わない人もいる。行けるならチャレンジしたほうがいい』と背中を押してくれたのです。兄の言葉で、ドイツに行く決心がつきました

欧州各国を訪れ、図研に対する
顧客の期待を肌で感じた

ドイツに渡った中石が直面したのは、コミュニケーションの取り方の違いだった。

図研ドイツのメンバーは率直に自分の考えをテーブルに出し、そこから議論を積み重ねる。時にはメンバー間で激しい言い争いに発展することもあったが、納得すればあっさりと引き下がり、後に引きずることはない。

中石も彼らの議論に参加することがあったが、最初は求められる回答の違いに戸惑うことも多かった。

例えば『こんな機能は実現できますか?』と聞かれたとき、日本のメンバーで話すときはこれを依頼の打診と捉え、もし難しいと思っても『〜ならできますが…』と答えることがあります。つまり、前提や条件が変わればできるかもしれません、という言い方をするんです。

ところが、図研ドイツのメンバーの場合は純粋に、今の条件で『可能か不可能か』が知りたくて聞いていて、さっきの場合なら『できない』と答えるのが相手の質問の意図に沿った答えになるわけです。
私は『○○の場合はどうだろうか?』と考え込むことが多かったので、よく『Don’t hesitate!(ためらわないで!)』と言われたのが印象に残っています

そうしたコミュニケーションは、顧客先を訪問したときも同じだった。訪問先はドイツ国内に限らず、ヨーロッパ各国への出張も多かった。

現地のお客様にとっては、日本本社の開発メンバーに直接質問ができる絶好の機会。技術的なことや、今後の製品計画など、矢継ぎ早に質問を受けました。答えにためらうと『もっと気楽に!』と、うながされることもありましたね

その場で答えられない質問は、宿題として一旦持ち帰った。だが、出張の日程は限られているため、次の日には回答を用意しておきたかった。

一日の予定が終わるのは午後6時。そのころ日本は午前1時だ。メールで質問を送り、翌朝、日本からの回答を確認する。ときには早朝に起きて、日本の担当者と直接会話をし、そのまま打合せに出席することもあった。

タフなスケジュールだったが、中石を駆り立てたのは「顧客からの高い期待」だった。図研本社の開発メンバーなら、すぐに的確な返答をくれるはず。その期待を裏切るわけにはいかなかった。

また、日本で開発に従事していた中石にとって、顧客先を訪れることは、自分が開発した製品が使用される場面に触れる機会でもあった。

実際に、海外の携帯電話や航空機などの製造現場を見ることで、改善点のヒントを得ることもできました。日本にいたら、伝聞でしか知り得なかった情報です。海外赴任は、開発者にとって今後の大きな糧となる貴重な経験でもありました

日本と海外の架け橋として、グローバル開発の中枢を担う

ドイツに駐在して3年が過ぎたころ、中石は新たなPLMソリューション『DS-E3』の立ち上げに携わった。

当時、電気制御・ワイヤハーネス設計用CADである『E3.series』がヨーロッパで広く導入され、専用のPLMに対するニーズが高まっていた。PLMによって生産効率を向上できれば、自動車など多くの産業に貢献できる。

『E3.series』は図研ドイツで開発されている。ドイツの開発メンバーとコミュニケーションが図れ、『DS-CR』の開発経験もある中石は、『DS-E3』の開発に打ってつけの人材だった。

『DS-E3』の開発にあたり、まずは図研ドイツの要望を精査することから始めました。ここでもやはり、『あれがしたい』『これがしたい』と率直な希望が寄せられます。輪郭がない要望に対して、細部を詰めて形にしていくのに苦労しました

中石は『DS-E3』の開発リーダーとして、国内外の要望をとりまとめ、開発仕様に落とし込み、計画の策定にあたった。その後、4年ほど『DS-E3』の開発に携わり、製品リリース後に中石の帰国が決まった。

エンジニアとして、日本でしっかりと開発に取り組みたいという思いがありました。海外で7年間働いた経験は、日本でもキャリアのプラスになるだろうと考えたのです。

帰国を告げたとき、図研ドイツのメンバーからは『ドイツに残ってもいいんだぞ』と声をかけてもらいました。大変なこともたくさんありましたが、自分を評価してもらえたことが嬉しかったですね

中石は帰国後も引き続き、『DS-E3』の開発リーダーを務めている。図研ドイツとは週1〜2回オンライン会議の機会があり、気心の知れたメンバーと駐在当時と変わらないコミュニケーションを図っている。

海外駐在を経て、積極的に人と接するようになったと感じます。一人で抱え込まず、他の誰かと思いを共有する大切さを教えてもらいました。これからも、日本と海外をつなぐ架け橋として、図研におけるグローバルな開発の中核を担えればと考えています

思い切ってグローバルの波に飛び込むことで、中石のキャリアはさらに大きな花を咲かせた。「Don’t hesitate! (ためらわないで!)」の声を胸に、中石は新たなチャレンジを続けている。

Questions & Answers

入社前後で図研に対する印象は変わった?
私が入社した頃は電気設計用CADの会社として有名で、そのイメージが強かったのですが、入社してみたらさまざまな事業を展開している会社だとわかりました。
図研の好きなところは?
前例がない、という理由で何かに対してNGが出ないところです。NGが出るケースでも自分とは重要視する箇所や視点、リスクの評価が違うといった理由が提示されるので納得感があります。
職場にはどんな同僚・先輩・上司が多い?
仕事をする上で、自分なりの流儀やロジック、何らかの一貫性のある考えを持って仕事をしている人たちが多くいます。
学生時代の経験が役に立っていることは?
大学の研究室が情報系だったため、そこで学んだ知識は開発の際に役に立ちました。現在でも仕様検討の仕方などについての基礎となっていると思います。
休日はどのように過ごしてる?
ジョギングをすることが好きです。リモートワークが多くなり太ったことがきっかけで始めましたが、タイムが縮むことが面白くなり、趣味になりました。