日本が世界に誇る「浮世絵」。江戸の大衆文化として爆発的に広まったのは江戸木版画の技術によるものである。安政年間に創業し技術を継承する「高橋工房」に話を伺った。伝統技術を受け継ぎ歴史のロマンを感じさせる色鮮やかな江戸木版画(左)紙は越前和紙の最高級品「越前生漉奉書紙(えちぜんきずきほうしょし)」、バレンは効率的に力をかけられるよう考案された特殊なものを使用。(中)山桜の木を用いた「神奈川沖浪裏」の版木。(右)顔料や刷毛、筆など。(左)和紙の色合いや染み込み具合を考えながら絵の具を調合。(中)版木を軽く湿らせた後、絵の具と絵の具を定着させるための糊をのせる。(右)絵の具を刷毛で全体に広げる。絵の具が乾く前に手早く均一に整える。東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」に代表される役者絵をはじめ、葛飾北斎や歌川広重の風景画、喜多川歌麿の美人画。江戸時代に花開いた浮世絵は、日本が世界に誇るアートのひとつ。モネやゴッホといった名だたる芸術家たちにも多大な影響を与え、19世紀後半のジャポニズムブームを牽引したという。その浮世絵を貴族や武家だけではなく、一般庶民も楽しめる娯楽にしたのが江戸木版画の技術である。江戸木版画は日本における多色摺り印刷のルーツなのだ。そもそも木版画が仏教とともに日本にもたらされたのは、およそ1200年前のこと。蛮絵(草花、鳥獣などのモチーフを丸く図案化した文様)、摺仏(すりぼとけ)、絵巻物などに使用されてきた。一般に普及し始めたのは江戸時代になってから。「見返り美人図」で有名な絵師・菱川師宣が浮世絵を制作したことがきっかけだ。「最初は墨一色の墨摺絵でした。その後、丹絵(たんえ)と呼ばれる、朱色を手で彩色する方法が考案され、どんどん複雑な色を着色するようになっていきました。そのうちに“見当(けんとう)”という、原始的ですが非常に画期的なものが発明されました。板の上に2ヶ所、ずれないように紙を配置できる目印がつけられ、それにより色をたくさん重ねて摺ることが可能になったのです。多彩な色の美しさから錦絵、また、江戸は上方(京都)に比べて東にあることから東錦絵とも呼ばれました」(高橋氏)江戸木版画の技術が確立したのは町人文化が花開いた江戸時代後期。1枚16文という、当時のかけそば1杯ほどの手頃な値段ということもあり、庶民の間に爆発的に広まっていった。浮世絵といえば絵師ばかりがクローズアップされがちだが、当然ながら絵師だけでは作品は完成しない。絵柄の色ごとの版木を彫る「彫師」、バレンで和紙に絵柄を摺り重ねて仕上げる「摺師」、そしてそれらの職人を束ねて企画を立て、作品をプロデュースする「版元」。この四者の協力があり、初めて作品が世に出されるのだ。「高橋工房」は摺師の家系で、創業は安政年間(1855~1860年)まで遡る。版元を兼ねるようになったのは高橋氏の父親である4代目から。高橋氏が6代目に就任すると版元に力を入れるようになる。「版元はすべての仕事をある程度把握していなければなりません。摺りに関しては子どもの頃からずっと見ておりましたので、どのような段取りかわかりますが、彫りは知識も経験もゼロに等しい。そこで、まずは彫師の仕事を覚えるため一年間修業しました。また、江戸時代のように摺りっぱなしでは渡せないため、掛け軸や屏風、フレームなどについても学びました。絵を生かすも殺すも、意外と表装が大切。どう飾るかまで考えながら仕事をしております」(高橋氏)22高橋由貴子氏安政年間創業『高橋工房』6代目。平成21年に就任した後、江戸木版画の伝統技術を継承し、版元としてさまざまな木版画の作品を手掛け、催事を企画。外務省、経済産業省とも連携し、海外で講演会や実演会、展示会を行うなど日本文化のPRに務める。東京伝統木版画工芸協同組合理事長。職人の育成にも力を注ぐなど、精力的に活動。浮世絵を世に広めた革新的な印刷技術
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